開山忌報恩講、日牌総回向


 真言宗中興の祖と仰がれる興教大師(こうぎょうだいし)覚鑁(かくばん)上人の恩に報い、感謝の念をささげることを目的とした行事、それが開山忌報恩講(かいさんきほうおんこう)です。興教大師は、弘法大師空海の教えを復興された聖者です。興教大師は、12月12日に入滅(にゅうめつ)されました。そこで、ご本山である京都智積院では、11日夕方から夜を徹して12日午前まで、様々な法要が展開します。

 潮音院では、13日の10時半からたくさんのお坊さんが集って、「法華経」の如来寿量品というお経と尊勝陀羅尼(そんしょうだらに)という陀羅尼をお唱えします。また、この報恩講の功徳を、各家先祖代々の供養へとめぐらせる卒塔婆供養も行います。

 報恩講のご法要の締めくくりは、総本山特派布教師様による御法話が拝聴できます。総本山特派布教師とは、真言宗智山派の管長であられる化主猊下(けしゅげいか)のお手代わりとして、管長様が特別に派遣下さる布教師様のことです。遠いご本山より来山頂きますし、年に一度しかない機会です。どうぞ、お参り下さいませ。

 

*卒塔婆供養を希望の方は、所定の用紙に必要事項をご記入の上、受付まで。→ <卒塔婆供養申込書>

 

 御法話が終了次第、お昼のお接待がございます。庫裏の方で準備されてありますので、お互いに協力しながら食事の座を設けて下さい。広いご本堂ですとゆったりお食事ができるかと存じます。どうぞごゆるりと。

 

 

<興教大師覚鑁上人のこと>・・・ 覚鑁(かくばん)上人は、肥前ノ国藤津荘(佐賀県鹿島市)でお生まれになりました。すぐお隣の県ですね。13歳のとき、京都 仁和寺の寛助僧正に従い出家得度をし、奈良と京都を往復しながら仏教を学び、20歳になると高野山に登って若い時期から真言密教の復興に精進努力されたのです。やがて、学問探究の場である「伝法院」、修禅の道場である「密厳院」を高野山上に建立します。

 しかし、一大勢力となった伝法院方は高野山の一部の人たちとの間に確執を生み、結局、覚鑁上人は無用の争いを嫌って根来山に移ることとなりました。上人は、康治2年12月12日(1143)に49歳の生涯を閉じられますが、上人の魂を引き継いだ高徳らによって大きな学問寺「学山根来」として興隆を極めます。当時の史料によれば、300から400の僧坊が建立されていたといわれています。

 しかし、こうした強大な寺社勢力を危惧した豊臣秀吉は天正13年(1585)3月に、大塔・大師堂などの2~3の堂塔を残して全山焼き払ってしまいました。そこで、学山根来の法灯を守り抜くために、新義真言宗の二大学派である奈良長谷寺を本山とする真言宗豊山派、京都智積院を本山とする私どもの真言宗智山派が産声をあげることになるのです。

 今昔を問わず、覚鑁(かくばん)上人の聖なる魂は、われわれ宗教家にとっての自覚と自戒を促す強力なパワーをビリビリと発信しています。詳しく述べるには、枚挙にいとまがございません。概説はこちらでご確認下さい。→ http://ja.wikipedia.org/wiki/覚鑁

【開催日】  毎年 12月13日

【時  間】  午前 10時半から

【場  所】  潮音院 本堂

 

 

<卒塔婆供養申込書>

下の申込書画像を永押しまたは右クリックで画像を保存しご記入後本寺院まで郵送ください(持ち込み、FAXでも受け付けています)