その後の真言宗の展開

 お大師さまは高野山に隠棲(いんせい)するにあたって、東寺を実慧(786~847)に付属し、高雄山寺を真済(800~860)に託しましたが、他に門弟は真雅・泰範・智泉・真如・道雄・円明・果隣・忠延とくわえて十大弟子を数えます。お大師さまの入定後は、高雄山寺・東寺・高野山を中心として、それらの門弟が真言宗を発展させましたが、その後東寺長者益信(829~906)、醍醐寺を創建した聖宝(832~909)、その弟子の観賢(853~925)などがうけつぎ、平安時代の半ば頃から仁和寺や大覚寺、そして醍醐寺を拠点として密教の実践法である事相が展開して、その流派が多く分かれ、小野・広沢十二流といわれるような発展を見ることとなりました。平安時代の終わりに近づき興教大師覚鑁(かくばん)(1094~1143)が出現し、真言宗の教学を振興させようと高野山上に大伝法院を建立し、事相の統一を図られました。しかし、金剛峯寺方の学侶との間に争いがおこって、門弟とともに根来山に隠退、根来寺を建立し、修禅観行と、門弟の養成に努め、49歳で入寂。これがのちに、新義真言宗の源となったわけです。

 鎌倉時代になると、新興宗教の展開にともない叡尊(1201~1290)や忍性(1217~1303)の活躍によって真言律宗がおこり、高野山・東寺そして根来を中心として真言密教が大いに新興され、全国に真言宗の勢力が拡張されていきました。室町時代はそれらが最も進められた時期ということができます。

 これらの発展にともない、戦国時代には豊臣秀吉と根来寺の強力な僧兵とが衝突することになりました。当時の根来には玄宥(1529~1605)と専誉(1530~1604)の二人の高僧が学徒を率いていましたが、専誉のほうは大和の豊山長谷寺(奈良県)に逃れ、玄宥は京都の東山にとどまることになり、諸堂を造営して智山智積院となしました。このように、根来の系統から長谷寺と智積院が分立したのです。

 江戸時代になると、幕府の政策で、高野山・東寺・仁和寺・醍醐寺などを中心とする古義真言宗と、長谷寺・智積院を中心とする新義真言宗とに大別され、それぞれの組織を拡充し、各地のお寺においても寺檀関係が確立されていきました。

 明治維新になって排仏毀釈の法難にあい、なかでも真言宗の寺院の勢力は大いに圧迫されることになったのですが、やがて復興にむかい、第二次大戦中は諸派合同や分立がありましたが昭和20年以後になると宗教法人法が制定され、現在に至っているのであります。