以上のような悲しい伝承をも備えた潮音院のなりたちではありますが、何はともあれ、この有徳な僧光盛と親切な里人達の出会いが、潮音院の起源の根底にあるようです。その後、光盛が生活した庵寺は山津波のため倒壊するわけですが、しばらくして、現在の地に再建されました。(延徳年間、1494年頃)。そして、天正2年(1574)に、ある法師の手で本格的な寺院として整備中興されたのです。世は戦国時代の真っ只中のことでした。

 天正9年(1581)には、平戸二十五代藩主松浦隆信(道可公)が、名越谷遠征(志佐純量を吉井直谷で討った)の帰途、宇田浦(歌ヶ浦)の港から乗船するため舟の村を通られたそうです。たまたま昼時だったこともあって、この寺へ立ち寄られ昼食をとられたのですが、当時の住職は、手製の新茶や、竹林の筍、大根の漬物などを供して殿様はじめ一行のものを手厚くもてなしたそうです。さらにこの日はお天気がすばらしくよく、近海の島々や平戸島の遠景、帆船の姿が眺望でき、百瀬にうち寄せる波の音、松風弾琴の響を聞いて道可公はひどく感動されました。寺の接待や、すばらしい景勝がよほどお気に召したとみえて、道可公より多額の布施とともに、『遠海山蓮華寺潮音院』という名を賜ったということです。

 ところが、潮音院の長い歴史の中では残念なこともありました。理由は定かではありませんが、しばらくの間、潮音院は廃寺同様の姿になってしまっていた時期がありました。推測の域を出るものではありませんが、おそらく住職の引き継ぎがうまくいかなかったことが、無住寺院になってしまった原因であったのではないかと思われます。

 この由緒あるりっぱなお寺が廃寺同様になっていることを嘆き、その復興に尽力されたのが快深和尚といわれる人です。寛永4年(1672)この法師によってりっぱに復興された潮音院は現在まで一度も絶えることなく法灯を引き継ぎ灯し続けております。この快深和尚は、現在の南鹿町正法寺大楽院の祖先でもあります。

 ※ 潮音院は平戸印山寺の末流として指定され、松浦藩祈祷寺として寺領が与えられていた。代々のお墨付きが現存する。隆信公の時に末流として指定され、三十代藩主(雄香公)、三十一代藩主篤信(松英公)、三十三代藩主誠信(安靖公)などから寺領を下賜された史実が残っている。