壇の浦でほぼ全滅してしまった平家一門に対して源氏は追及の手をゆるめず、生き残ったわずかな平家ゆかりの人々を捜し出しては斬首しておりました。清盛の嫡流にあたります(重盛の孫・維盛(これもり)の子)六代御前も関東へ護送されて、鎌倉の六浦坂で斬殺されました。

 「それよりしてぞ、平家の子孫は絶えにけり」と『平家物語』は一門の断絶を語っています。
 『平家物語』には、しかし、生死を明らかにしていない武将や逃亡を伝える武将が存外に多く、彼らが落人となって隠れ住んだ、と伝える伝承も少なくありません。

 平家落人伝説は、中国・四国・九州を中心に日本各地にひろく分布しており、仏教信仰と結びついた平家落人としての特色を呈しています。

 潮音院開基の伝承もこの例外ではなく、古来よりさまざまな話が語り伝えられているようです。

 今を去ること八百有余年の昔、平安時代末期頃舟の村中野の山あいに薬師如来をまつる御堂がありました。このお堂に足を痛めた一人の僧が養生のため滞在しておりました。この僧こそ平家縁りの人でありまして、人品卑しからず、学徳もあり、修行を積みたいへんな法力をもち備えたりっぱなお坊さんでありました。そういうお坊さんでありましたので、里の人々はよく思慕し飲食物や衣類を寄進して不自由な体を世話しておりました。この有徳の僧の存在は、やがて近隣の評判となり、信者も増えて、足の傷が治ってからも里の人々は彼に永住することを願い、僧もこの地域の人達のあたたかい親切心に居住を決心することになりました。里の人々の手によって庵寺も建てられ、この僧は一生をこの地で過ごし修行僧の教育や地域の人々の為に活躍したのでありました。

 潮音院の起源は、実はこの時であった様で、当時あった庵寺の場所は山津波のため埋没してしまい現在では見る影もありません。(現在古庵谷(ふらんだに)と呼ばれる付近)しかし、第二次大戦後の田普請を行なった際に石灯籠や五輪塔・三界万霊塔などが発掘され往時を偲ばせました。これらの石塔類は、現在潮音院表参道の中腹に合祀してあります。

 さて、この潮音院の起源となった有徳の僧のおはなしですが、いくつかの語り伝えのある中、ここでは鹿町町の史料に基づいて紹介しておきたいと思います。

 霧の深い目暗ヶ原に二人の僧が歩いておりました。一人は盲目の僧らしく、琵琶を背負い、霧の中でも難なく歩いておりました。この僧、都でも名高い琵琶の妙手で、平家一門の栄華を誇る時代には御前近くで何度か琵琶を弾じたこともあるという法師、背に負う琵琶も、御前より賜った「明月」という名器らしく、胴の中柱には麝香(じゃこう)の名木が使われていたそうです。

 さて、もう一人の僧はといえば、人品卑しからざるただ者ではない人物で、実はこの僧こそ、先程来述べておりました潮音院の起源となった人なのです。この人は平家一門の都落ちの際、現在の滋賀県大津市にある義仲寺(木曽義仲や松尾芭蕉の墓所としても有名)に僧となって身を寄せ修行生活をしていた平家の武将、樋口光盛のなれの果てなのでした。源平の争いで、多くの肉親縁者を亡くし、又多くの人々を殺生し、一方では、世の中のはかない事、又無常であることをつくづく思い、その結果仏道に帰依して亡き人々の供養をし続け、そのためにも世捨て人の境界の中で後生を得ようと、はるばる西海の果てまでたどり着いたのでありましょう。はた又伝承におきましては、西海五島列島の宇久島へ逃れ落ちていた平通盛(たいらのみちもり)(宇久通盛)の噂を風の便りに聞きつけ、その通盛のもとへ身を寄せようと、西海鹿町の海をよこぎって宇久島へ渡らんとしたのかもしれません。

 どちらにしましても、この二人の僧の目的はひとつであったに違いなく、その目的達成のため霧深い目暗ヶ原の道を歩いていたわけですが、その時突然、霧の中に黒い影が動いたと感じるやいなや、折か

らの風に流されて薄ぼんやりとしていた霧の中から羽音をひびかせながら一本の矢が走ってきました。

光盛は盲僧を引き寄せかばおうとします。その凛(りん)として構えた物腰はさすがに只者ではありません。霧の中から沸き上がった一群は、よくこの辺で山道に出現しては通行中の旅人を襲う物盗りの集団でした。

光盛の激しい応戦に合って、いつにない事で驚いた賊でありましたが、なにしろ弓矢を持って射かけるものですから始末が悪い。そのうち霧も再び濃くなって、賊もあきらめて手負いの仲間をかついで逃げ散ってしまいました。

 多くの賊をたった一人で応戦したものですから、さすがの光盛も歩行が困難な程足に傷を負ってしまいました。はて、法師殿はいずこに、と光盛は盲僧のゆくえを探しましたが、捜し出すことができずに仕方なく高原をおり、里の人達に助けを求めることにしました。

 翌日、動けない光盛にかわって里の人々が盲僧を探しに目暗ヶ原にでかけました。ところが悲しいことに、盲僧は胸を矢で射られ、背負っていた琵琶も真っ二つに射割られて、濡れた深い草の中で息絶えておりました。あわれに思った里の人々は、この盲僧を名器「明月」と共に荼毘にふしたのでした。その時燃えた琵琶からは、えもいわれぬ妙なる香りが立ち込めて、それ遠く平戸島の志々伎山までただよい香ったということです。盲僧の魂が、志々伎山の海の向こうにある宇久島までたどり着かんという想いの一念だったのかも知れません。